2013年1月31日木曜日

ケニア初日

1月8日 ナイロビ


カイロからケニアの首都ナイロビまでは、エチオピアの首都アディスアベバを経由して、合計約6時間のフライトである。
カイロ~アディスアベバ間の飛行機にはエジプトからの旅行者も多く、機内に黒人は半数程だったが、アディスアベバの空港内はほとんどが黒人で占められ、いよいよブラックアフリカに入ったことを実感する。
そして数時間後、ケニアの首都ナイロビに到着。今日から2カ月弱、このアフリカの大地を旅するのだと思うと、胸が高鳴る一方で、治安やこの場所特有の病気など、様々な不安が頭をもたげた。

ナイロビ空港からタウンと呼ばれるナイロビ中心地へはタクシーで30分、のはずが結局渋滞のせいで1時間ほどかかった。
アフリカの各主要都市では毎日必ず渋滞が発生する。
これは、アフリカのほとんどの国で、あらゆる道路が主要都市の中心地へとつながるように設計されていることが原因だそうだ。植民地時代、道路を一か所に束ねて関所のようなものを設置し、黒人が自由に往来できないようにしたのだとか。

この渋滞はナイロビ在住の日本人を悩ませているそうだが、今回がケニア初訪問の僕にとっては目的地まで時間がかかるというのはむしろ幸運だった。数年前まで世界でも有数の犯罪都市であったナイロビにすぐさま身一つで放り出されるというのは、少し刺激が強すぎる。
車の窓から見える人々ももちろん全て黒人で、やはりどうしても全ての人に少なからず恐怖心を持ってしまう。残り1時間で、彼らの縄張りにのこのこと足を踏み入れるのだと思うと、大袈裟だが1時間が死へのカウントダウンのように思えた。
それほどビクビクしていたはずなのに、フライトで眠れなかったのが響いたのか気がつくと30分以上寝てしまっていた。そして起きると次は暑さである。
マラリアへの恐怖で長袖を着ていたが、赤道直下に程近いここナイロビで長袖というのはあまりにも暑過ぎる。両者の狭間で葛藤して上着を着たり脱いだりしていたら、いつの間にか目的地であるヒルトンホテルにたどり着いてしまった。

結局何一つ心の準備が出来ないまま、ナイロビの中心地(タウンと呼ばれる)に放り出された僕は、すぐに威嚇用に持ってきていたとびきり胡散臭いサングラスをかけて、上着(結局着ることに)も目立つ黄色のマウンテンパーカーから黒のフリースに着替えた。フリースはさらに暑いので、もはや汗だくだ。
そして半径5メートル以内に必ず安全そうな人がいる状態を保ちながら、宿の近くへと向かうほぼ満員のバスに飛び乗った。乗客からすれば、巨大な荷物を担ぎ、汗をまき散らしながらサングラスをかけて突進してくる僕の方がよっぽど怖かったかもしれない。
すし詰め状態のバスの内部に一歩足を踏み入れた瞬間、猛烈なワキガの匂いに襲われた。噂には聞いていたがアフリカ人男性のワキガはインド人のそれ以上である。というかこれはもはやワキガではない。体全体から発している体臭だ。日本でこの臭いがワキガと呼ばれているのは、日本人には脇くらいしかこれほどの臭いを発する部分がないからに違いない。
その後は、なんとか女性の隣をキープしたり、窓を全開にしたりして、ワキガ臭対策に勤しんだ。

落ち着いて窓から外の空気を吸うと、少し気持ちに余裕が出来てくる。ふとサングラスの中から周りを見回してみると、冗談を言い合ってじゃれ合う男たちや、赤ん坊をあやす母親の姿があった。
少し気を張りすぎていたのかもしれない。見た目がこれほど違っても、同じ人間で、誰もがやさしい心を持つ人々なのだ。犯罪にはもちろん気をつけなくてはならないが、黒人だからと言って誰かれ構わず警戒していては自分も楽しめなくなるし、何よりもその無作為な警戒心こそがまさに差別へとつながる感情だろう。
僕はサングラスを外し、目に映る全ての人々に警戒心をむき出しにしていた自分を反省した。

  
宿への道中、バスの窓からタウンの様子を観察していたが、この地の予想以上の発展ぶりに驚いた。
先進国のそれと変わらない大きさの高層ビルが街を埋め尽くし、そこには外国資本の有名企業が入っている。ビルの隙間には綺麗な公園や整備のされた道路が存在し、野外イベントなどのエンターテインメントも充実している。そして街ゆく人々の格好もきちんとしていて、この街に全くと言っていいほど危険な雰囲気は感じられなかった。そしてなによりナイロビが豊かな街に見えた。
この時はまだ知らなかったのだが、この日僕が通った、タウン、ナイロビ西部は、ナイロビの中でも最も裕福な地域だったそうだ。中流階級の人々の住むダウンタウン、貧困層の人々が住むスラム街は、基本的にナイロビ東部に存在しているのである。

宿に着くと、緊張の糸が切れて疲れがどっと押し寄せた。宿にいた日本人の方と夕食を食べ、その日は早めに眠りについた。




2013年1月29日火曜日

エジプト再訪

1月4~7日 シャルムエルシェイク、カイロ



およそ1カ月半続いたヨーロッパでの旅を終え、この旅最大の山場である東アフリカ縦断の準備のため再びエジプトに訪れた。
飛行機でイギリスのマンチェスターから、西欧諸国、地中海を越え、エジプトのシナイ半島最南端のリゾート地シャルムエルシェイクへ。元旦の夜明け前をロンドンの公衆トイレで過ごした際、少し話したスロバキア人の男性に、2カ月以上もかけて北上した距離をたったの6時間で逆走してしまうのはあっけないねと言われていたが、僕には6時間のフライトですらとても長く感じられた。
アフリカが楽しみだったからというのもあるが、なによりもエジプトでもう一度アラブの地を踏めることが何よりも嬉しかったのである。

エジプトでの滞在期間は3日間。リゾートでのんびりしている暇はさすがになかったので、シャルムエルシェイク空港に到着したその足で夜行バスに乗って首都カイロまで直行することにした。
空港からバス乗り場へ直接移動できるタクシーに乗ると、一般のタクシーの10倍もの値段をふっかけられる。僕は空港から歩いて近くの国道まで行き、無事通常価格のタクシーを捕まえることに成功した。なんでも便利なヨーロッパの後だけに、こういった途上国ならではの苦労に慣れるのも、エジプトをはさんだ理由のひとつである。

夜行バスはシナイ半島の岩山地帯を6時間走り続ける。
バスの窓から見える岩山は月明かりに照らされ、昼間の殺風景な姿とは打って変わってとても幻想的だ。ここが旧約聖書の舞台の一つであるという情報も相まって、神々しさすら感じるほどである。
もしも今までで一番印象に残った地域はどこかと聞かれたら、今の段階ならば迷わず中東を挙げるだろう。
目に飛び込んでくる光景も、肌で感じられる文化も、複雑に宗教と絡み合う歴史も、すべてが日本とはかけ離れているからなのかもしれない。日本人の僕からすれば圧倒的に非現実的なこのイスラムの世界には、きっと思いもよらぬ魅力がまだまだたくさん眠っているのだろう。
そんなことを考えながら眠りに着く。前回もそうだったが相変わらずこの区間の夜行バスはよく眠れた。


カイロの中心地タハリール広場には前回と全く変わらない騒々しい光景がそこにあった。けたたましく鳴り響くクラクションや無作為に車が行きかう大通り、マーケットで男たちが発する怒号にちょっかいを出してくる若者たち。
久しぶりにそのような光景を前にしているにもかかわらず、いよいよ旅も5カ月を迎えようという僕は、なぜかこの街を完全攻略する自信があった。
1度目の滞在でエジプト人に対するいなし方みたいなものをある程度心得ているはずなので必要以上に絡まれることはないだろうし、この辺りの地理は大体頭に入っている。大量の車もしっかりと周りを注意していれば何も危険ではない。そして移動に疲れたら、街中至る所に点在する喫茶店でチャイを飲みながらシーシャを吹かせばそれはもう旅行者と言うより立派な現地人だろう。
と、意気揚々と宿へと歩き出してから早1時間、道に迷って、エジプト人に絡まれ、逃げ込むようにカフェに入って地図とにらめっこしている僕はまだまだ旅の初心者らしい。

3日間はあっという間に過ぎて行った。アフリカ旅行で必要なものを購入し、安全に旅をするための情報収集。どれも予想以上に時間がかかってしまったのだ。余った時間でルクソールの王家の谷やアブシンベル宮殿を訪れようかなどと余裕をかましていた昨日の飛行機の中が懐かしい。

とはいえ、せっかくのエジプト再訪をショッピングとパソコンだけで過ごしていたわけではない。カイロでは人に会う予定もあった。
前回エジプトを訪れた時に仲良くなったマレーシア出身のムスリム(イスラム教徒)の女の子で、カイロの大学で医療を学んでいる。
彼女とその友人たちにカイロの中でもひと際大きなショッピングモールに連れて行ってもらい、彼らが通う大学構内や学生寮(大学の周りに学生街なるものが存在する)も案内してもらった。
マレーシアの医学部生がエジプトの大学に留学するというのは比較的ポピュラーな進路だそうだ。エジプトの医学部は、意外なことに、と言うと失礼だが、国際的に見ても教育の水準が非常に高く、イスラム圏であるということもあり特にマレーシア出身のイスラム教徒の学生にはかなり人気があるらしい。
その他にも彼らの話をたくさん聞き、僕も旅の話や日本の話をたくさんした。
同じアジア圏出身だからというのもあるのだろうか、僕のつたない英語でもすぐに打ち解けることが出来るのだ。
彼らと食事をしながら話をする時はもちろん、買い物をしているときも、寮でみんなとテレビゲームをして遊んでいる時も、日本で友人たちと過ごす時間のように心地よく、お互いに楽しむことが出来たと思う。
旅先で連絡先を交換する外国人はたくさんいても、心からその後も交流を続けたいと思える友人が出来るのは稀だ(少なくとも僕の場合は)。それは一重に僕の英語力のなさのせいで深いコミュニケーションを図れないからなのだろうけれど、だからこそ英語力が乏しい段階でこういう友人が出来ると、人と人との友情というのはコミュニケーションだけで育まれるものではないんだなあと改めて考えさせられる。
そして何より、日本から物理的にも文化的にも遠く離れたアフリカ大陸にすら、信頼できる友人がいるというのはとても心強いし、こんな僕と付き合ってくれる彼らに感謝せずにはいられない。彼らへの最低限の礼儀として次に会う時はさすがにもう少し英語力を上げて、彼らの持つ文化についてももっと勉強しておかなければ。

アフリカ旅行で必要なものの買い物と、情報収集と、友人との再会で、2回目のエジプト滞在は終わってしまったが、彼らのおかげで精神的な準備もきちんと整えることが出来た。
この喧騒のカイロの一角に、僕にとって温かい居場所があることを確認できたことは大きな自信につながるだろう。


最終日の夜、喫茶店でチャイとシーシャを頼んだ。大好きなこのチャイとシーシャの文化も今日を最後に当分はお預けだと思うと、名残惜しい。
どこまでも奥深いこのイスラムの地を、次に訪れる時はもっともっといろんなことを知っていて、現地の言葉も少しは話せる状態で訪れたい。そう思える土地に出会えたことは、とても幸せだと思うし、これこそ旅の醍醐味だろう。
と、出発まで時間もないのにだらだらと物思いにふけった後、未練がましく最後に一口シーシャを吹かし、急ぎ足で空港へと向かった。



ヨーロッパ後半まとめ

12月初旬~1月3日 イタリア、ドイツ、ポーランド、イギリス

更新さぼってしまってすみません!この期間の写真だけアップします。イタリアはちょくちょく下書きは書いてたので、帰国後ゆっくり自己満足で更新して行こうかなと思っております。


イタリアはマルゲリ―タ発祥の地、ナポリへ。とりあえずうまいマルゲリ―タ食べたいということで訪れたのは「ダ・ミケーレ」と言うピザ屋。どうやらジュリアロバーツの「食べて祈って恋をして」という映画のロケ地らしく1~2時間待ちが当たり前の超人気店だそう。ということで食べてみたのですが...

普通!衝撃的な普通さ!でも確実に僕の舌がおかしいだけだと思うんでぜひ行ってみてください。超人気店なんで。

ローマもちゃんと行きました。

仲良くなったチリ人のマニュエルと一緒にナポリから電車で小一時間の場所にあるアマルフィという海岸都市へ。

かつてはイタリア半島最大の海洋貿易都市として栄えたアマルフィですが、今では入り組んだ海岸の一角にひっそりとたたずむ小さな町です。でもそれが何とも言えない哀愁を漂わせていて、物悲しい系大好きな人にとってはたまらんです。

フィレンツェ。この街出身の友人に教えてもらった、フィレンツェを一望できるスポット。素晴らしい。

これも友人おすすめの「イエローバー」。少し前までは地元の人向けのレストランだったみたいですが、今は観光客もたくさん訪れるそう。そしてこの店は料理のクオリティがものすごく高いことでも有名。

ムール貝。激うま。
水の都、ヴェネチアにも行きました。半日だけ。
ヴェネチアの迷路のような街の中で見つけた変な店。
水の都だけにタクシーも船!
フランクフルト。

アウシュビッツも行きました。
有名な何百人ものしたいが積み上げられていた場所。アウシュビッツは2日間くらいかけてじっくり見たかったのですが、寒すぎて1日だけでしかも1時間くらいしかいなかったです。
ドイツと言えばビール!

自家製ビール!!
シュバイツハクセンという料理がめちゃくちゃうまい!豚の足周りの肉なんですが、尋常じゃなくビールに合うのです。やっぱりビール好きはドイツかベルギーに絶対行くべき。
ハンブルグの歓楽街。女人禁制の場所とかもあって隣国のオランダとはそういうのに対する寛容度がかなり違うようです。

ビートルズが海外(イギリス外)で初めて演奏したライブハウス。
イギリス!ビックベン!!ここで年越しするはずが、少し離れた場所で休憩→仮眠→寝坊 でまさかの近くの駅で年越しする羽目に。

その様子。人少ない。

マンチェスターで予備校の友達と再会。長旅では気心知れた友人と話す機会が皆無なので、ほんとに癒されました。ありがとう。
マンチェスター~エジプトへの飛行機の中から。ヨーロッパを覆う分厚い雲。歩けそう。

次回からはアフリカ編です。
次からは文章もアップするんで良ければ読んでください~