1月8日 ナイロビ
カイロからケニアの首都ナイロビまでは、エチオピアの首都アディスアベバを経由して、合計約6時間のフライトである。
カイロ~アディスアベバ間の飛行機にはエジプトからの旅行者も多く、機内に黒人は半数程だったが、アディスアベバの空港内はほとんどが黒人で占められ、いよいよブラックアフリカに入ったことを実感する。
そして数時間後、ケニアの首都ナイロビに到着。今日から2カ月弱、このアフリカの大地を旅するのだと思うと、胸が高鳴る一方で、治安やこの場所特有の病気など、様々な不安が頭をもたげた。
ナイロビ空港からタウンと呼ばれるナイロビ中心地へはタクシーで30分、のはずが結局渋滞のせいで1時間ほどかかった。
アフリカの各主要都市では毎日必ず渋滞が発生する。
これは、アフリカのほとんどの国で、あらゆる道路が主要都市の中心地へとつながるように設計されていることが原因だそうだ。植民地時代、道路を一か所に束ねて関所のようなものを設置し、黒人が自由に往来できないようにしたのだとか。
この渋滞はナイロビ在住の日本人を悩ませているそうだが、今回がケニア初訪問の僕にとっては目的地まで時間がかかるというのはむしろ幸運だった。数年前まで世界でも有数の犯罪都市であったナイロビにすぐさま身一つで放り出されるというのは、少し刺激が強すぎる。
車の窓から見える人々ももちろん全て黒人で、やはりどうしても全ての人に少なからず恐怖心を持ってしまう。残り1時間で、彼らの縄張りにのこのこと足を踏み入れるのだと思うと、大袈裟だが1時間が死へのカウントダウンのように思えた。
それほどビクビクしていたはずなのに、フライトで眠れなかったのが響いたのか気がつくと30分以上寝てしまっていた。そして起きると次は暑さである。
マラリアへの恐怖で長袖を着ていたが、赤道直下に程近いここナイロビで長袖というのはあまりにも暑過ぎる。両者の狭間で葛藤して上着を着たり脱いだりしていたら、いつの間にか目的地であるヒルトンホテルにたどり着いてしまった。
結局何一つ心の準備が出来ないまま、ナイロビの中心地(タウンと呼ばれる)に放り出された僕は、すぐに威嚇用に持ってきていたとびきり胡散臭いサングラスをかけて、上着(結局着ることに)も目立つ黄色のマウンテンパーカーから黒のフリースに着替えた。フリースはさらに暑いので、もはや汗だくだ。
そして半径5メートル以内に必ず安全そうな人がいる状態を保ちながら、宿の近くへと向かうほぼ満員のバスに飛び乗った。乗客からすれば、巨大な荷物を担ぎ、汗をまき散らしながらサングラスをかけて突進してくる僕の方がよっぽど怖かったかもしれない。
すし詰め状態のバスの内部に一歩足を踏み入れた瞬間、猛烈なワキガの匂いに襲われた。噂には聞いていたがアフリカ人男性のワキガはインド人のそれ以上である。というかこれはもはやワキガではない。体全体から発している体臭だ。日本でこの臭いがワキガと呼ばれているのは、日本人には脇くらいしかこれほどの臭いを発する部分がないからに違いない。
その後は、なんとか女性の隣をキープしたり、窓を全開にしたりして、ワキガ臭対策に勤しんだ。
落ち着いて窓から外の空気を吸うと、少し気持ちに余裕が出来てくる。ふとサングラスの中から周りを見回してみると、冗談を言い合ってじゃれ合う男たちや、赤ん坊をあやす母親の姿があった。
少し気を張りすぎていたのかもしれない。見た目がこれほど違っても、同じ人間で、誰もがやさしい心を持つ人々なのだ。犯罪にはもちろん気をつけなくてはならないが、黒人だからと言って誰かれ構わず警戒していては自分も楽しめなくなるし、何よりもその無作為な警戒心こそがまさに差別へとつながる感情だろう。
僕はサングラスを外し、目に映る全ての人々に警戒心をむき出しにしていた自分を反省した。
宿への道中、バスの窓からタウンの様子を観察していたが、この地の予想以上の発展ぶりに驚いた。
先進国のそれと変わらない大きさの高層ビルが街を埋め尽くし、そこには外国資本の有名企業が入っている。ビルの隙間には綺麗な公園や整備のされた道路が存在し、野外イベントなどのエンターテインメントも充実している。そして街ゆく人々の格好もきちんとしていて、この街に全くと言っていいほど危険な雰囲気は感じられなかった。そしてなによりナイロビが豊かな街に見えた。
この時はまだ知らなかったのだが、この日僕が通った、タウン、ナイロビ西部は、ナイロビの中でも最も裕福な地域だったそうだ。中流階級の人々の住むダウンタウン、貧困層の人々が住むスラム街は、基本的にナイロビ東部に存在しているのである。
宿に着くと、緊張の糸が切れて疲れがどっと押し寄せた。宿にいた日本人の方と夕食を食べ、その日は早めに眠りについた。
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