2012年12月7日金曜日

コソボ2日目

11月26日 プリシュティナ

 
この日は快晴だった。プリシュティナはベオグラードに比べて大分暖かく、空気もカラッと乾燥していてとても過ごしやすい。
そしてこの街の地形はヨルダンのアンマンのそれとよく似ていた。町の中心部はいくつかの丘によって囲まれていて、中心部には銀行や大学、行政機関など、この国の中枢を担う建物が並び、それらを囲む丘の斜面には住宅が立ち並ぶ。

町の中心部にたどり着くまでの住宅街は、簡素な家が並ぶ一方、高級住宅や、ところどころにマンションなども見られ、幅広い所得層が同じ空間で生活をしている。

 
そんな風景を眺めながら坂を下り、この街で最も人が集まると言われる通りに出た時、そこには驚くべき光景が広がっていた。
まず道行く人々の数がベオグラードとは比べ物にならないほど多い。老若男女問わず様々な人たちが通りにごった返し、それはまるで日本の都心部を見ているような人口の密集ぶりである。

 
その通りの脇に立ち並ぶ建物には高級ブランドから格安のファストフード店まで、ジャンル、価格問わず色々な種類の店舗が入っている。そして近くの幹線道路からは、イスタンブール以来聞くことのなかったクラクションのけたたましい音が聞こえてきた。
とても4年前に独立を宣言した国の光景とは思えなかった。きっとこれからもチャンスを求めて様々な国からの移民が増え続け、コソボはますます発展していくのだろう。

プリシュティナを散策していて考えさせられたことが一つある。
ここに訪れた人なら誰もが驚くと思うのだが、街の至る所アルバニアの国旗が掲げられているのだ。いや至る所というより、街が国旗で埋め尽くされているといった方が正しい。まず、ほぼ全ての建物にアルバニアの国旗が掲げられている。そして多くの車が国旗をなびかせて走っており、露店の店員などの制服がアルバニア国旗を模したTシャツだったりする。その他にも様々な場所に国旗のデザインが使われていて、歩いていてあのデザインを見ない瞬間はない。
 
かつてユーゴスラビアのコソボ自治区の人口はアルバニア人が大半を占めていて、そのことがコソボの独立と、悪名高い民族浄化を打ち出したセルビア軍によるコソボ破壊活動の最大の要因である。そしてセルビアをはじめ、多くの国家はまだコソボをアルバニア人の国として認めていない。そんなコソボ国民にとってこの国旗はここがアルバニア人国家であると示すための大切なシンボルなのかもしれない。
平和な時代の日本で生まれ育った僕は国家とか民族なんて深く考えたり学んだりしたことがないけれど、コソボのように民族の存続の危機を経験した国や、近隣諸国と常に緊張関係にある国の人々からすれば、そういう知識や意見を持たないというのはきっととんでもない馬鹿なことに見えるんだろう。
別にそういった知識や意見が今後も必要になることはないとしても、単なる教養としてでも、しっかりと学んでおくべきことなのかもしれないと思った。
一方で、そんな日本に生まれたことに対する感謝も感じる。国家や民族なんてものを深く考えずに、自分の生きたいように生きられる国に生まれたというのは、経済的に豊かな国に生まれたことと同じくらいに恵まれたことなんだろう。

日が暮れかかった頃、プリシュティナに到着した時と同じバスターミナルへ向かった。
これから西隣のモンテネグロを経由して、クロアチアのドブロブニクへ向かう予定だ。ドブロブニクはヨーロッパの中でも絶対に訪れたい場所のひとつで、正直ブルガリア、セルビア、コソボは、そのための経由地くらいにしか考えていなかったのだけど、この3国では大切なことを沢山学ぶことが出来た。
寒々として活気がなく、殺伐とした雰囲気が漂っていると思っていたこの国々は、実は穏やかで温かく、日本とは全く異なる価値観を見せてくれた。なにより活気あふれる雰囲気の反対は殺伐とした雰囲気ではなく、平穏という魅力もった雰囲気であることを教えてくれた。できることならもう一度あのドナウ川の風景を見にベオグラードへ戻りたいくらいである。

アルバニア国旗を模したTシャツを着た露店の若い店員が作ってくれたサンドウィッチを胃に詰め込んで、モンテネグロ行きのバスに乗り込んだ。



~この日撮った写真~
旗の多さ。




コソボ紛争にてNATO軍の最高司令官としてコソボを救ったビルクリントンの銅像。

丘の上から見下ろしたプリシュティナ中心部の様子。

食べ物は基本的にセルビアと同じだった。
 


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