2012年11月30日金曜日

ブルガリア初日

11月21日 ソフィア


頭部に激痛が走って、目が覚めた。
どうやら僕はあの後バスの座席を2つ陣取って眠ってしまっていたらしい。目の前で、荷物を僕の頭にぶつけたことを老婦人が懸命に謝っていた。
席を2つも使って爆睡していた上に、席から頭がはみ出すほどのおかしな体勢で寝ていた僕が悪いので、どうぞお気になさらずに。という意味を含めて軽く会釈をしたが、もちろん伝わらず、その後も一生懸命謝ってくれていたのが申し訳なかった。トルコに入ってからあまり英語が通じない。感謝や謝罪、怒りなど自分の感情を表わすべき場面でそれが出来ないというのが一番もどかしい。
ふと時計に目をやるともう朝の6時である。結局イミグレーションの機械が朝まで直らず、僕らを乗せたバスは、トルコでもブルガリアでもないこの空間に取り残されたまま夜を明かしたらしい。
乗客が荷物を持ってせわしなくバスを降りるのを見て、入国手続きが再開されたことを理解し、僕もそれに続いた。
入国手続きを済ませ、再びバスに乗って、次に目を覚ました時は既にブルガリアの首都、ソフィアに到着していた。
イスラエル出国の際の徹夜がまだ尾を引いているのか、バスを降りてからも一向に目が覚めず、ほとんどソフィアの街の景色に目をやらぬまま、何かに取りつかれたかのようにただただ宿だけを目指して移動した。
宿に着くまでの間で唯一僕が足を止めたのは、地下鉄の駅で見たクラリネットの路上演奏だ。初老の男性が奏でるその音楽は、僕が勝手に想像していたブルガリア音楽そのものだった。明日のソフィア散策の脳内BGMにしようと、わざわざ近くのマクドナルドでコーヒーを頼み、眠たいのも忘れて小一時間その演奏に聞き入った。
演奏が終わったのを見て、彼の足もとの袋に他の人に習って1レバ放り込み、その場を後にする。
歩き始めるとまた激しい睡魔に襲われた。早く宿に到着して一刻も早くベッドに倒れ込みたいのと、眠気による充血とで、文字通り血眼で宿を探していた。
血眼の僕は普段よりも神経が研ぎ澄まされていて、ソフィア中心部の網目のように広がる道路網をいともたやすく攻略して目的の宿にたどり着いた。そしてやっとベッドに倒れ込むことが出来た。
旅の疲労、というか海外で暮らすことによる疲労というものはどんどん蓄積されていくものなのだろうか。僕の場合はどんどん蓄積されている気がする。もちろん肉体的な疲れとかだるさとかは食べて寝れば回復するし、精神的な疲労もなにか心が満たされる出来事に遭遇すれば回復するけれど、どうしても抜け落ちない異国ストレスみたいなものがどんどん溜まっている。でも旅人の中にはそういうものを一切感じない人もいるみたいで。そういうタイプの人が長期の海外生活などに向いている人なのだろうか。だとしたら僕は、長期間日本を離れることはできないけれど定期的に海外で暮らしたい、というかなりわがままなタイプだ。

昼間泥のように眠ったせいで夜は逆に目が冴えてしまって遅くまで寝られず、同じく遅くまで起きていたブルガリア人の男性と晩酌をした。
彼とは初め、音楽の趣味が合ったのでその内容で盛り上がっていたのだが、彼が数年前まで軍隊に所属していたということを知り、途中から専ら軍や兵器に関する話題になった。
ブルガリアの武器はロシア製のものが多いらしく、彼曰くロシアの兵器はアメリカのものよりも優れているそう。世界一大きい戦闘機も潜水艦も戦車もロシア製らしい。

話をしながら部屋の窓から外を眺めていると、「sex shop」と書かれた店から男性と派手な格好の女性が出て来てそのまま夜の闇に消えて行った。その光景がなぜか妙に東欧らしく思えて、このイメージ通りの殺伐とした東欧諸国の世界観に、不思議と気分が高揚した。


~この日撮った写真(少ない。。)~


2012年11月27日火曜日

トルコ2日目

11月20日 イスタンブール


この2日間ほとんど寝ていなかったせいか、この日の睡眠時間は軽く12時間を超えた。
出発の支度やブログの更新、ブルガリア行きのバスチケットの購入などで、いつものようにあっという間に日が暮れる。
イスタンブールの居心地は本当に良くて、一週間くらいいてもよかったのだが、昨日ガラタ塔でアジアとヨーロッパの分かれ目を見てから俄然旅の気力が上がっていた僕は、憧れの地ヨーロッパへの好奇心を抑えることができなくなっていた。

個人的にはこの旅で一番好みの味だったトルコ料理を目いっぱい胃袋に詰め込んで、ブルガリアの首都ソフィア行の夜行バスに乗り込んだ。
出発してしばらくの間、バスは海沿いの高速道路を走っていて、窓からイスタンブールの夜景が見渡せた。エルサレムと同じようにこの街も街灯には白熱電球を使っていて、夜の世界を絶妙にライトアップしている。白熱電球というのは魅力的な街の共通項なのだろうか。
 
夜の移動は宿一泊分のお金を節約できる代わりに、ネットもできず、街灯がなくなれば移りゆく景色を楽しむこともできないので、決まって手持無沙汰になる。特にバスは激しい揺れのせいで日記も満足に書けないので、することといえば寝るか、音楽を聞くか、ぼーっと物思いにふけることくらいだ。
旅をする中で、何かを見たり聞いたりして、反射的に考えを巡らせる習慣ならついていたが、なにもない車内で無理矢理何かやり考えるとなると、その内容は情けないくらいに子供じみたものになる。
今回のバスでは、よく新幹線や飛行機などの座席に着いている食事用のテーブルが、前の座席の人が椅子を倒した時に、どうやってあの水平状態を維持しているのかということを延々と考えていた。というより思い出していた。
あのテーブルがまだ確実には水平状態を保てない時(そういう時期があったとして)に飛行機や新幹線に乗った人たちの被害は相当なものだっただろう。機嫌良く食事をしていたらいきなりテーブルの傾斜が30度くらいになって食べ物やら飲み物が全て自分の膝の上にぶちまけられるのである。ドッキリもいいところだ。
きっと彼らが航空会社にクレームをつけなければ、今でも僕たちはいつ目の前のテーブルが傾斜30度になるのかとびくびくしながら食事をしなければいけなかったのかもしれない。そう考えるとクレーマーと呼ばれる人たちは意外と世の中を良くするのかもな、というそれっぽい結論に無理やりこじつけて、考えることにも飽きて後はずっと音楽を聞いていた。
あのテーブルがどうやって水平状態を保っているのかは結局思い出せずじまいだった。

トルコの出国ゲートに到着し、吹きつける寒風に凍えながらパスポートを持って乗客全員でイミグレーションへと向かう。
今回の出国手続きはおそらく今までで最もゆるい部類に入ると思う。
ここのイミグレーションで出国スタンプを押す役員の主な仕事は、スタンプを押し終えて近くでタバコを吸う人々との談笑なのだろう。そして片手間にスタンプを押したり、気が向いた時だけ、まるで旅行から帰って来た友人に感想を聞くかのような口調で滞在理由を尋ねる、といった具合である。
僕の時も、なんでイスタンブールに行ったの、と笑顔で聞いてきたので、アジアとヨーロッパの分かれ目を見るため、と答えると、彼が何かトルコ語でジョークを言って周りの人たちを笑わせていた。からかわれていたのかもしれないけれど、僕はその光景がなんだかとても平和なものに感じて、全ての国境でこんな出国ができる日が来ればいいのにな、と思った。

そういうわけで出国ゲートはものの数十分で乗客全員が通過した。
しかしその後、ブルガリアの入国ゲートで面倒なことが起こる。イミグレーションの機械が故障して入国手続きの再開のめどが立たないというのだ。
トルコとブルガリアの国境のど真ん中にポツン佇むバスの中で機械の復旧を待つことになってしまった。
 
 
~この日撮った写真~
バスターミナル内のゲームセンター。

バスはお菓子にコーヒーにテレビ付きだったけど、トルコ語の番組ばかりだった。

トルコとブルガリアの国境
 

2012年11月26日月曜日

トルコ初日

11月19日 イスタンブール


恐ろしい程の睡魔の中、イスタンブール・サビハ空港にて入国手続きを終え、ヨーロッパの玄関口イスタンブールに到着。
早朝だったこともあり気温はとても低く、ラダックぶりの白い息にヨーロッパに近づいていることを実感し、心が躍った。
サビハ空港はイスタンブールのマイナー空港で、ボスポラス海峡が一望できる中心地まではバスで90分もかかる。今まで訪れた国は空港から街の中心部までが比較的近かったので、ひどく不便に感じた。きっと成田空港に到着した外国人も、日本の一番メジャーな空港から東京都までの距離に驚くのだろう。

イスタンブールの中心地は僕の想像とは大きくかけ離れ、高層ビルが立ち並ぶ大都会だった。かといって、それらがボスポラス海峡の景観を損ねているわけでもなく、高層ビルの隙間を縫って街を埋め尽くす色とりどりの古い建物やモスクが海や山と絶妙にマッチして、古都イスタンブールの歴史的な雰囲気を保ってくれていた。

一泊二日でイスタンブールを発つ予定だったので、あらかじめネットで予約しておいた宿に荷物を置いて急いで街の散策に出かける。
イスタンブールはボスポラス海峡によってヨーロッパ側とアジア側に分断されていて、多くの観光客が集まるのはヨーロッパ側だ。さらにヨーロッパ側も、高層ビルや雑居ビルが立ち並ぶ新市街と、市場やモスクなどが集まる旧市街に分かれ、見どころは旧市街に集中している(らしい)。
新市街にある宿を出てから旧市街へたどり着くまでのほんの数十分の間に、イスタンブールの滞在期間を2日間(実質1日)とした自分のスケジューリングを恨む程にこの街に魅了されてしまった。
新市街を歩けば、いたるところに点在する無料のWIFIスポットや路面電車を用いて環境に配慮する点、綺麗に清掃された幹線道路などにこの街の先進性を感じ、かと思えば旧市街付近の溢れんばかりの車やバスの量、そして活気あふれる人々は、今まさに発展中のインドやエジプトを彷彿とさせる。本当にこれからが楽しみな街だ。
中でも僕が引きつけられたのは、ガラタ塔と呼ばれるイスタンブールの街並みを一望できる塔の周辺に軒を連ねる多くのカフェや雑貨屋である。古風で厳格な雰囲気を持つ店から、スタイリッシュな内装を持つ店、綺麗にガーデニングされゆったりとくつろげそうなログハウスなど、それぞれの店が独特の個性を持っていて、全部見て回るだけでも軽く数時間経ってしまう。もしこの週が、僕の旅の中でときおり訪れる節約週間でなかったら、カフェ巡りでもしていたと思う。
 



 
 旧市街と新市街はボスポラス海峡へと流れる川によって隔てられていて、そこにガラタ橋という有名な橋がかかっている。ちょうどこの橋からボスポラス海峡が広がっていて、その海峡によって分断されたアジア大陸の終わりとヨーロッパ大陸の始まりが一度に見られるということで、イスタンブールでは唯一絶対に行こうと決めていた場所だ。
それほど素晴らしい景色を見られる橋が恋人たちの憩いの場所になっていないわけがないと、それなりの覚悟をして行ったわけだが、現実と想像とはかけ離れているもので、そこはおやじたちが集まる巨大な釣り場だった。



ガラタ橋からの景色はまあまあといったところで、いまひとつ物足りなかった。二大陸の端を一度に見る、というたったひとつしかない目的に妥協したくなかった僕はさっき通ったガラタ塔に登ってみることにした。
ガラタ橋を引き返して、ガラタ塔のある高台を登る。なかなか急な斜面だったが、道の両脇に立ち並ぶ店がどれも本当に個性的で、それを見ながら歩いていると不思議と疲れなかった。
ガラタ塔にたどり着くと、入口には長蛇の列が出来ていてそのほとんどが恋人同士で訪れていた。油断していた、どうやら彼らの憩いの場はここだったようだ。
不意をつかれてうろたえながら階段を上り、最上階にたどり着く。
やはり恋人たちが集まるスポットというのはいつも間違いがない。そこには僕の望んでいた景色が広がっていた。
ガラタ橋から見た時にはただの島のように見えていたアジア大陸が、ぼやけて見えなくなるまで延々と続いていて、でもそれが広大なアジア大陸のほんの一部だということもしっかりと想像させてくれるような景色。
まがいになりにもアジア、中東を旅してきた僕にとってこの風景を前にした時の達成感は筆舌に尽くしがたい。でもきっと自転車やバスなど、ずっと陸路でアジアを旅してきた人たちはこの何十倍もの感動を味わうのだろう。

日が暮れてイスタンブールの街がライトアップされるまで、1時間くらいぼーっとその景色を眺めていた。その間、これまでの旅をざっと振り返ってみた。なんとなくそういう場所のような気がしたから。
アジアを回っていた頃は今考えても不思議なくらい、自分の旅に自信が持てなかった。なぜか貴重な体験を沢山しなければいけないと思っていたり、そういう体験をしている他の旅人を羨ましがったり、旅の予定をこなせなかっただけで自分を責めたり、なにかにつけて色んな人たちの旅と自分の旅を比べてしまったり。
ふっ切れたのは、ラダックでもらった風邪がムンバイあたりで完治した頃だった。自分の中に明らかにいくつかの変化があって、それらは旅を始めた頃に望んでいた変化ではなかったけど、悪くないと思えるものだった。
何か自分で重要だと思うことを続けていれば、必ず何かしら変化なり気づきがあるということを学べたのも大きい。旅で続けていることのひとつに、何かを見たら何か考える、何も感じなくてもとりあえず何か考える、というのがあるのだけれど、2ヶ月半続けていたら本当に何かを見たら反射的にとりあえず何かを考えられるようになった。
日記も日本にいた頃は何度も、続けようと決心しては挫折する、というのを繰り返していたのに、旅に出てからは不思議と一日もやめることなく続けられた。きっと旅に出たら人は多かれ少なかれ良くも悪くも人が変わるんだと思う。僕も今人生史上最も非社交的だ。
別に旅に出ること自体が大事なのではなくて、旅に出ることで日常的な生活を一旦離れ、少し環境が変わって、今まで保ってきた自分というものが少し揺らいだタイミングでいかに自分の中に変化をもたらすか、が大事なのかなと思ったり。
ずいぶん話がそれたけど、まあこういう話は帰国してしばらく経ってみないと何とも言えない。帰国して日常的な生活を再開した途端元通りなんてこともありえるだろう。でも今はとりあえずこの貴重な環境の中で自分の中にできるだけたくさんの変化を作りだす努力を続けようと思う。そしてその変化を帰国後失わないようにするための算段もそろそろたて始めるつもり。
 
 
とりあえずそんな風にアジア、中東の日々を振り返っていたら、あたりはすっかり暗くなっていつの間にか息が白くなっていた。
トルコで夜道を歩いていて拳銃を突きつけられたという話を2度も耳にしていたので、一夜きりの絶景に名残惜しさを感じながらも、早めに宿に帰った。



~この日撮った写真~
新市街の中心、タクシム広場。
 
宿。おしゃれで清潔でさすがヨーロッパ。

ガラタ橋。巨大な釣り場になっている。

トルコ料理。イスタンブールの大衆食堂はビュッフェ形式で、好きなものをプレートに乗せていき、最後にお金を払う。これで300円くらい。

トルコ料理のご飯はなぜかピラフみたいな味がついててめちゃくちゃうまい。
路面電車(トラム)。

ガラタ橋から見たアジア。


おしゃれショップ集。







ガラタ塔。

ガラタ塔から見たアジア。
ガラタ塔から見た旧市街。

イスラエル最終日

11月18日 エルサレム

この日はまた寝坊し、加えて出国前日恒例の雑事に追われた。
イブラヒムおじいさんの家からテルアビブ空港まで直通で行ってくれるタクシーを手配し、翌日のイスタンブールの宿を予約し、洗濯をして洗濯機を壊し、干す際に地面の上に全て落とし、また洗い直し、気がつけば夕方だった。
イブラヒムおじいさんの家の前には学校があって近くには公園もあるので、この辺りには子供がとても多く、家の前の通りは子供たちの遊び場になっている。この家に住み着いている猫に子供たちがちょっかいを出して遊ぶ様子を眺めていると、突然、雷が落ちたかのような爆音が鳴った。屋上に上がって山の麓を見渡してみると、遠くの方で黒煙が上がっている。何か小競り合いでもあったのだろうか。
イスラエルの人はこういうのには慣れているのか、黒煙が上がろうがミサイル警報が鳴ろうが、至って落ち着いている。その様子はどこか騒いでも何も変わらないことを悟っているかのようにも見えた。

この日もガザ地区ではイスラエル軍による空爆が行われていて、死者は52人に達した。Twitterのタイムラインに流れてくる、ガザ地区への空爆で殺された幼い子供たちの写真を見ていると、この問題に関する深い知識のない僕は単純だけどイスラエル政府が本当に許せなくなる。
でも、この一週間イスラエル人ともパレスチナ人とも、そしてその両方の子供たちとも本当に素晴らしい時間を過ごせた。その思い出のおかげで、どうにか公平に事実を見たいと思い直すことができる。

パレスチナ問題について、色々こうしたらいいんじゃないか、ここがだめなんじゃないかと考えを巡らせることは簡単だけど、今の僕に実際に行動できることは本当に悔しいくらいに限られている。
今回はその限られたできることの中から二つ、「この問題についてまずは知ること」と「両方の市民と触れ合い、他人事だという考えをなくすこと」が出来た。
実際にこうやってイスラエルから離れ(今はセルビア)twitterを見ながらブログを書いている今でも、タイムラインにガザの報道が流れてくると、イスラエルを旅する中で出会った人々のことが心配になる。
今はほとんどできることがないけれど、いつかそう遠くない将来にまだこの問題が解決されていなくて、そのとき僕にできることが今よりも増えているなら、迷わず行動したいと思う。そのためにも時々自分のブログを読み返したり、写真を見返したりして、この問題に対して今抱いている気持ちを忘れないようにしたい。

この日は余った時間のほとんどをイブラヒムおじいさんの家の屋上で過ごした。
屋上からはエルサレムの街並みが一望でき、夜になると街中にちりばめられた沢山の白熱電球が街を幻想的に映し出す。そして見上げると、エルサレムは空気がきれいなのか星がたくさん見える。夜にこの風景を1人で眺めながら仲良くなったボランティアの青年が入れてくれる変わった味の紅茶を飲むのがこの一週間の日課だった。
この家はオリーブ山の頂上にあるため屋上から見降ろすと山の中腹から麓にかけての多くの家の屋上が見えるのだけど、ほとんどの家が太陽光発電をしているのには驚いた。この電気は主に風呂のお湯を温めるのに使っているらしい。路面電車もそうだし、イスラエルで受ける様々なサービスはとても心地よく、人にも環境にも配慮できているイスラエルは先進国としてとても魅力的だ。イスラエルの良い面も悪い面も忘れないようにとずっとこの景色を眺めていた。

夜になって予約していたタクシーがイブラヒムおじさんの家に到着する。本当は空港までのタクシーをチャーターするのには300リラ(6000円)かかり、さらにタクシーが出発する場所に行くために別のタクシーを使わなければいけないのでさらに50リラ(1000円)ほどかかるのだけど、なんとタクシーの運転手がイブラヒムさんの息子だったので、無料でここまで迎えに来てくれたのだ。
昼にバスでテルアビブに行って少し観光してから空港に行っても良かったのだが(その方が安く済むし)、ガザからミサイルが大量に飛んできているテルアビブに長居する気にはなれず、夜に直接空港へ向かった。

ものの1時間弱で空港に到着し、ドライバー兼イブラヒムさんの息子の彼とも宿泊中には交流があったので、元気でな、と言いながら抱き合って別れた。周りから見ればタクシーの運転手と乗客が抱き合って別れるという不思議な光景だったと思うが。
テルアビブ空港は世界で一番安全な空港だと言われているそうだ。理由はもちろんこの空港のセキュリティチェックの徹底ぶりである。半分愚痴になってしまうと思うけど、その徹底ぶりをレポートしたい。
まずは荷物検査、の前に口頭質問がある。普通の空港ならここではパスポートの番号とチケットに記載されている番号との一致を確認するだけの単純作業のはずだが、テルアビブ空港は違う。まずイスラエルにいた理由やどこにいて何をしたかなど、根掘り葉掘り聞かれる。さらに誰かに爆弾を渡されていないか確認するための質問を受けるのだけど、担当の者が僕の英語に難があることを察知するや否や、日本語用の質問シートを渡してきて正確に答えさせられた。質問シートは日本語以外にもさまざまな言語に翻訳されていて、序盤からそのセキュリティレベルの高さに驚かされる。
次に荷物検査がある。普通の空港ならX線に通してもしなにか不審なものがあればそれを確認するという作業が行われるが、テルアビブ空港は違う。まず荷物をひっくり返される。言ってくれれば自分で開けるのにひっくり返される。そして衣服や電気製品などジャンル別に分けてある袋もお構いなしにすべて一緒にひっくり返される。そしてほとんど全てのものに薬品検査を行い、電子機器もケーブル類以外は全て爆弾の可能性ありと見なされ、別室に持って行かれ数十分ほど待たされる。
待っている間、財布に入れていた小銭もテーブルの上にばらまかれチェックされた。荷物検査が終わった後は検査係の人たちは早々に立ち去ってしまうので、一人でテーブルの上にばらまかれた小銭を財布に入れている時はなかなか惨めだった。
最後は身体検査。普通の空港なら荷物検査をやっている横でものの10秒で終わってしまう作業だが、もちろんテルアビブ空港は違う。別室に連れていかれて、服屋の試着室のような場所に入れられる。そして靴下、上着を脱がされ、身体検査が始まるのだが、これなら裸になった方がましだと言うくらい徹底的に体中を撫でまわされる。足元から尻、わき下などは特に時間をかけて撫でまわされ、仕上げに検査機であそこを何度かタッチされた。この検査はなかなか不快だった。検査している側もつらいと思うが。
全て終わった後は僕の担当(?)のような人がゲートがある場所まで優しく案内してくれた。
確かに不快ではあったけど、こんなに安心して飛行機に乗れたことはないし、経験と言う視点(この視点は無敵である)でははなかなかおもしろい体験が出来た。ただ、毎回これをやらなければ飛行機に乗れないイスラエル人の人たちには同情する。

ぼくのはもしかしたら極端な例なのかもしれないが、テルアビブ空港を利用する際は覚悟しておいた方がいい。あと本当に時間がかかるので普通よりも早めに空港に着いておいた方が方がいい。

ゲート前のカフェでコーヒーを飲んでから飛行機に乗った。フライトは5:20だったのでまだ周りは暗かったが、ほとんど人がいないカフェで夜の空港を見ながらコーヒーをすするというのはなかなか良い。
徹夜だったので、飛行機の中では爆睡してしまった。
これでアジア、中東の旅は終わり、起きればそこはヨーロッパの玄関口イスタンブールである。明日から、個人的には未知の世界であるヨーロッパの旅が始まる。


~この日撮った写真~
この家の猫。

イブラヒムおじいさんの家の前の通り

テルアビブ空港電光掲示板。

これから体をまさぐられる人たち。

水筒を使わねば。

検査を全部終えるとそこはオアシス。

ぶれぶれだけどイスタンブールへ。